ヤマハからのプロジェクトにトヨタが決断
1955年に完全なオリジナル設計のクラウンを発売して以降、コロナ、パブリカと新たなカテゴリー(クラス)のクルマをリリース、フルラインナップで生産発売するようになったトヨタにとって、次に欲しかったのは会社の金看板となるスポーツカーだった。
確かに、パブリカ用の空冷エンジンを使い、空力を徹底的に追求したミニスポーツカーのトヨタ スポーツ800はあったが、当時ライバルだった日産にはオープン2シーターの本格的なスポーツカー、フェアレディがあった。さらに何とか4輪をリリースしたけれども、まだまだ2輪メーカーに毛が生えた程度のホンダでさえ、水冷直4ツインカム、と“珠玉”のエンジンを搭載したスポーツカーを販売していた。
業界の覇者であろうとするトヨタにとって、本格的なスポーツカーは欠かすべからざるアイテムだった。そんなトヨタにヤマハから持ちかけられたのがスーパースポーツカーのプロジェクト。渡りに船、とトヨタは決断した。
速度記録挑戦やグランプリレースで活躍
67年に2000GTを完成、リリースしたトヨタは、さまざまなプロモーションを手掛けていった。中でもモータースポーツには力が入っていた。まだ市販前だった66年、速度の国際記録樹立を狙って、谷田部にあった自動車高速試験場で実施したスピードトライアルは、その好例。
レース参戦のために組織されていたチーム・トヨタ(ワークスチーム)のドライバーを起用して、オーバルコースを昼夜兼行で走り続ける・・・。72時間、1万マイル、1万5000kmの3つの部門で206km/hを超える平均速度を記録して世界記録を更新。6時間の国際記録は210km/hを超えていた。
一方でチーム・トヨタからレースにも参戦した2000GTは、特に耐久レースで大活躍。発売前は純レーシングマシンと同じクラスに編入されたが、耐久レースでは、それらを打ち破ることもあった。そして66年の第3回日本グランプリでは、純レーシングマシンのプリンスR380に次いで3位表彰台を奪っている。レースでも速かったのだ。


